SENDAI CITY LIFE MAGAZINE

仙台で暮らす、東北で生きる

建物の繋ぎ目を愛でる(仙台・藤崎編)

※この記事はデイリーポータルZ新人賞に応募するものです
https://dailyportalz.jp/special/rookie2020/

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写真中央、床と床をつなぐ金具部分が今日の本題。

建物の繋ぎ目を愛でたい。

異なる建物同士をつなげるために、電車の連結部分のような金具が設置されていることがある。専門用語ではエキスパンションジョイントというらしい*1。商業施設などで増築された部分がある場合、足元や天井を見てみると、繋ぎ目の金具を発見できる。逆に言えば、エキスパンションジョイントがあるなら、そこは建物が増築された形跡かもしれない、ということだ。この記事では、建物の繋ぎ目を見つけ、増改築の歴史を偲び、ひたすらに愛でていく。


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今回は、藤崎本館の繋ぎ目を愛でる。

藤崎は仙台・一番町にある創業200年超えの老舗百貨店だ。宮城県の各地にサテライトショップがあって、中心部以外の人々にもなじみが深い。店内では、ビリーバンバンの菅原進さんが歌う藤崎のイメージソング「好きさ、この街が…」がエンドレスリピートでかかっていて、中毒性のあるメロディーとコーラスによって仙台人は洗脳されている。藤崎でかつて働いていた友人は、この曲を聴くと精神が狂ってしまうらしい。

藤崎のイメージソング | 藤崎 - FUJISAKI -

イメージソング「好きさ、この街が…」は、藤崎の公式サイトでフル視聴ができる。なお、サムネイルは基本的に藤崎本館の写真だが、時間帯によって伊達政宗像や七夕がサムネイルになるときがある。謎の工夫である。

藤崎の歴史

簡単に藤崎の歴史を紹介する。

藤崎の歴史 | 会社案内 | 藤崎 - FUJISAKI -

藤崎は、文政2年(1819年)に、初代藤﨑三郎助が衣類卸商の父から独立し、太物商(木綿商)を開いたことが発祥だ。創業当初の屋号は「得可主屋(エビスヤ)」で、現在のロゴマーク(◯にエと書かれているもの)は得可主屋の時代に作られたものである。1919年に陳列式の木造店舗が完成し百貨店化すると*2、1932年には現在のマーブルロードおおまちに面する位置に、鉄筋コンクリート造地下1階地上3階建ての新館が完成。食料品や家庭用品の取扱いも開始し、本格的に百貨店として営業を開始する。藤崎の新館建設、および食料品の取扱開始は1933年に開業する三越仙台店(現在の仙台三越)への対抗措置でもあったという。この1933年完成の鉄筋造の建物こそが、今の藤崎本館のベースである。

戦災によって藤崎は売場の多くを失う。木造部分は消失し、鉄筋造の新館も外壁や内装が焼け焦げるなど大きな被害を被った。戦後に改修・増築工事を開始し、1955年の第二次増築によって、地上3階建てだった店舗を5階建てに増築した。

そして、1963年に青葉通りに面した「南館」を完成させる。南館は地下3階・地上7階建ての非常に大きな建物である。同時期には三越仙台店や丸光*3といったライバル百貨店も増築。さらには緑屋*4、長崎屋*5、エンドーチェーン仙台駅前店*6などの大型店も相次いで開業し、藤崎が対抗するためには既存の店舗面積では不足すると判断されたのであろう。

 

長々と書いたが、繋ぎ目を見つけるにおいて押さえておきたいポイントは2点だ。

・戦前からあったかつての本館(以下、旧館)と1963年に完成した南館の繋ぎ目が存在する

・旧館が何度か増築されている

今や藤崎の旧館と南館の区別は、ほとんど意識されてはいない(藤崎側も分けて表記することはせず、2館を併せて「本館」と称している)が、繋ぎ目によって増築の歴史を知ることができるのだ。

藤崎本館で繋ぎ目を愛でる

さっそく、藤崎本館の中を見てみよう。

本館中央、エスカレーターのすこし南側に、エキスパンションジョイントがある。

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本館1階、ちょうど4℃があるあたりにエキスパンションジョイントを発見。床部分に金具があるほか、天井部分にも隙間があることがわかる。

もう60年近く、旧館と南館を繋げてきた繋ぎ目である。この繋ぎ目によって、昔は売り場が北側だけだったことが視覚化される。かつては北側部分しかなく、しかもたった3階建てだったのである。すこしずつ増築され拡大していく売り場のあゆみを、この繋ぎ目が伝えてくれる。

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繋ぎ目の場所はエスカレーターのあるほんの南側だ。

これにより、エスカレーターがあるのが旧館側、2基のエレベーターがあるのが南館側であることがわかる。旧館側は地下1階建て、南館側が地下3階建てであることから、地下2階の生鮮食品売り場「マイキッチン」は南館側だけのフロア構成となっている。

また、1955年に旧館は3階建てから5階建てに増築されたが、その形跡については天井高の違いに現れている。旧館の既存部分にあたる建物は、ほかのフロアと比べて天井がすこしだけ低いのだ。正確な高さはわからないが、目視によってその差がわかる程度には低い。おそらく、数十年の間で技術が進化し、天井の壁を薄くすることが可能になったのだろう。

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本館2階のようす。奥側が旧館、手前側が南館。椅子の奥にエキスパンションジョイントがある。手前に比べると、奥の旧館側はすこし天井が低くなっているのがわかる。

さて、増築の跡がわかるのは繋ぎ目だけではない。藤崎本館には旧館側と南館側、すなわちマーブルロードおおまち側と青葉通側の2つの入口があるが、青葉通側の入口には不自然な階段があることに気が付いた方も多いだろう。

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青葉通側の入口。いきなりの階段によって、キャリーケースを持った女性が行く手を阻まれている。

これはつまり、マーブルロードおおまちと青葉通の間には若干の高低差(青葉通側の方が低い)があり、先に作られた旧館の高さに合わせるため、南館の入口がやや複雑な構造になっているのだ。

5階に不自然な吹き抜けがある 

また、1967年に藤崎は旧館を5階建てから6階建てに増築している。その形跡についても、5階部分に残っている。下の写真を見てほしい。

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下が5階、上が6階。ここだけ吹き抜け構造になっている。

5階部分のエスカレーターホールが不自然な吹き抜けになっている。こういった吹き抜けは他の百貨店でも見たことがあるが、最上階部分にあることが多い。建築についての詳しいことはわからないが、この5階から6階に至る部分の吹き抜けが、増築によるなんらかの名残であると推測される。かつては5階が最上階で、そのスペースが吹き抜けとなっていたのだろう。

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6階から7階へ至るエスカレーター。下に吹き抜け空間がある、やや不自然な構造だ。

藤崎には、丸ボディ部分照明式エスカレーターがある

また、藤崎といえば、本館中央の4基並列エスカレーターが特徴的だ。1971年の第5次改築が完成した際に作られた。当時は世界で2番目、日本初の4基並列エスカレーターだったとのことだ。えんじ色の手すりがどこか高級感を思わせ、今でも藤崎のシンボルである。このエスカレーターにも、増築の跡を思わせる部分がある。

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藤崎本館の中央にある、美しい4基並列エスカレーター。1971年に設置されてから、長く藤崎のシンボルである。上り下りが自在なため、買い物の時にとても助かる。

藤崎にあるエスカレーターは基本的に同じ形をしているのだが、4階から5階に上がる4基と5階から6階に上がる1基だけ、丸ボディの部分照明式エスカレーターなのだ。

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こちらが丸ボディの部分照明式エスカレーター。ほかのエスカレーターとの違いは、欄干部分が膨らんでいることと、一部分が光っていること。

丸ボディの部分照明式エスカレーターとは何か。丸ボディとは「手すりの下部、欄干部分が丸みを帯びて出っ張っているエスカレーター」のことであると、東京エスカレーターというWEBサイトを運営する田村美葉さんが提唱している。初期のエスカレーターはだいたい丸ボディなのだが、古い建物がなくなるごとに、この丸ボディのエスカレーターも少しずつ数を減らしている。

そして、現代のエスカレーターは欄干パネルがほとんどガラス製であるが、黎明期のエスカレーターは欄干パネルが乳白色に光っていた。これが丸ボディ全照明式エスカレーターである。その後、開放感を演出するため、全照明式→部分照明式→全面ガラス式へと変わっていくのだが、移行期である部分照明式のエスカレーターが、藤崎には5基もある。

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欄干パネルの一部分だけが乳白色で、あとは透明になっている。いかにも不思議な構造だ。

丸ボディ部分照明式のエスカレーターが作られたのは1960年代。その後、1970年代になると全面ガラス式が主流になる。藤崎の4基並列エスカレーターが作られたのは1971年の第5次改築が完成した際のことであるから、藤崎の大部分を占めるエスカレーターはこのとき設置されたものだとわかる。

しかし、4・5・6階部分にある5基の丸ボディ部分照明式エスカレーターだけは、旧館を6階建てにした際の1967年に設置されたものである可能性が非常に高い。たった4年の違いだが、こんなところにも段階的な増築工事の形跡が残されている。かつて、藤崎の最上階には食堂があった。百貨店の食堂といえば、当時の子どもたちの大のごちそうだ。当時の子どもたちは、とても楽しみな気持ちを抱えながら、丸くて愛らしい形のエスカレーターに乗ったのだろう。

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藤崎にやってきた人々の足元を50年以上も支えてきた、貴重なエスカレーターだ。

屋上にも繋ぎ目がある

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エレベーターで屋上に向かい、なんとなく業務用出入口感が漂うドアを開けると、そこには神社のある屋上空間が広がっている。

続いて、屋上にやってきた。藤崎の屋上には「藤崎えびす神社」がある。藤崎は得可主屋の名で営業を行っていた当時からえびす様をお店の氏神様として崇めており、1932年に新館を建てた際に兵庫県西宮神社から勧請した。1963年の南館完成の際に現在の場所に移されている。

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こちらが藤崎えびす神社。おみくじもできる、立派な神社だ。

そして屋上にも、旧館と南館の繋ぎ目がある。

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手前側が旧館、奥が南館。真ん中の大きな段差が繋ぎ目にあたる。

藤崎のこれから

1971年に藤崎本館の増築は終わり、その後は本館の近隣区域にリビング館(現・藤崎大町館)、アネックス一番館(現・藤崎一番町館)、藤崎ファーストタワー館をそれぞれ建設。現在の藤崎は4館体制となっている。

そんな藤崎だが、現行の店舗を解体し、新たな店舗を建設する計画が持ち上がっている。

「来年に新店舗計画」仙台の老舗百貨店、藤崎社長 :日本経済新聞

あくまで現在の位置での建て替えを計画しているため、もしかしたら今の藤崎本館の建物とは残り数年でお別れとなってしまうかもしれない。何度も増築を繰り返した繋ぎ目や、美しい4基並列エスカレーター、そして貴重な丸ボディ部分照明式のエスカレーターが失われてしまうかもしれないという事実はすこし寂しい気もする。いびつな繋ぎ目のある藤崎の建物には、藤崎と仙台の成長の歩みが残されているのだ。

創業200周年特設サイト | 藤崎

藤崎 - FUJISAKI -

*1:増築されたもの以外でも、たとえばマンションにも建物の損壊防止のためにエキスパンションジョイントが設けられていることがある。

*2:1900年代以前、百貨店の前身である呉服店を営んでいた三越高島屋などは、「座売り」という、売り子が呉服店内の畳に座り、来店客が来ると畳に上げ、要望の商品をひとつひとつ見せていくという販売方法を取っていた。しかし、1900年前後から米国のデパートメントストアに倣い、ショーウィンドウを設置して自由に店内を見て回れる「陳列式」のお店が誕生した。この陳列式を導入したお店のことを百貨店と呼ぶ。藤崎が百貨店化する1919年前後は、三越松屋白木屋などの豪華絢爛な百貨店の成功をきっかけに、地方でも呉服店を起源に持つ百貨店が次々と登場していた。余談だが、日本の百貨店は座売りの呉服店時代の名残があり、1920年代中頃までは下足預かりの方式、つまり土足入場が禁止であった。藤崎も開業当時は土足禁止であったと推測される。

*3:戦後間もない仙台駅前に雑貨屋として開業し、その後増床を繰り返して百貨店化し、一時期は藤崎を凌ぐ売上を誇っていた地元資本の百貨店。その後、丸光仙台店に関してはダックシティ丸光→ビブレ→さくら野百貨店と名称変更し、2017年に運営会社が倒産して閉店。なお、青森や北上などに2020年現在で4店舗を構えるさくら野百貨店とは運営会社が異なっていたため、丸光をルーツとした百貨店は残っている。

*4:月賦百貨店の大手で、最盛期は仙台駅前に3店舗を構えた。その後、仙台の店舗を集約して1982年にams西武としてリニューアルオープン。2003年に閉店後、ams西武の後継跡地には仙台LOFTが入居している。

*5:神奈川県平塚で布団や衣料雑貨を販売していた長崎屋布団店が、多店舗展開する中でアメリカのチェーンストア経営の理論を取り入れてGMS(総合スーパー)化し、長崎屋の屋号で急速に全国展開した。仙台には1963年に東一番丁に仙台店を出店して進出。現在、仙台店のあった場所では地下1階でOKストアが営業している。台原仙台バイパスにも大型店舗があった。現在はドン・キホーテグループの子会社となり、長崎屋台原店があった場所はMEGAドン・キホーテになっている。

*6:現在のEBeanSを運営する会社で、かつてはエンドーチェーンの名で東北を中心に全51店舗を展開する総合スーパー事業を手掛けていた。仙台駅前店は地元資本では初となる総合スーパーとして愛され、屋上広場やサテライトスタジオ、「大マンモス展」などの特徴的な催事が人気を博したが、1980年代後半から経営が悪化。その後仙台駅前店は西友に営業譲渡した時期もあったが、ザ・モール仙台長町の開業を機に西友が手を引き、EBeanSが開業。そのためか、今でも店内放送のチャイム音がザ・モール仙台長町とEBeanSとでは同じ音である。