SENDAI CITY LIFE MAGAZINE

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建物の繋ぎ目を愛でる(盛岡肴町・旧ななっく、中三、川徳本店編)

旧ななっくの建物の繋ぎ目を愛でる

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旧ななっく。現在は閉店している。

盛岡駅からまっすぐ歩いて約30分。中津川を越え、岩手銀行赤レンガ館を過ぎると見えてくる、肴町商店街の入り口の大きな建物。それこそがかつてのNanak(以下、旧ななっく)であり、かつての川徳本店、および中三盛岡店だ。

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建物を東側から見た画像。大きく分けると、1960年代に完成した右側(北側)、1970年代に完成した中央部分、1980年代に完成した左側(南側)に分けられる。

特徴的なのは、その構造の複雑さだ。過去5回以上の増築を経て、まるで工場のような、もしくは合体ロボのような、継ぎ接ぎだらけの姿をわたしたちに晒している。川徳本店として建設されたのは1956年のこと。中三に譲渡されてからも増築を繰り返しながら、江戸時代から続いた盛岡で最も歴史のある商店街の中心でもう60年以上もこの街の歴史を見続けてきた。そんな建物も2019年6月に閉店し、今は取り壊しを待つだけになっている。跡地は地元の建築会社が買い取り、新たな商業施設「monaka(もなか)」がつくられる予定だ。

そんな旧ななっくの建物の繋ぎ目を愛でたい。しかし、もう既に閉店しており、建物の中には入れない。なので今回は、外観や航空写真、手元にあるいくつかの写真と資料から、想像で繋ぎ目を愛でることにする。また筆者は1994年生の仙台在住者であり、川徳時代や中三時代はほとんど知識にない。事実関係においては、より詳しい方からの解説を聞きたいと考えている。ひとまず、この記事を書くことによって、皆様がそれぞれの記憶や事実を思い返していただければ幸いである。

旧・川徳本店の歴史

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1960年代の川徳本店の様子と現在の比較。屋上に見えるのは展望台である。展望台は現存していないが、支柱部分が今でも残っている。 https://morio-j.com/mp/moriokakokon/?sid=278

中ノ橋通に面した通り沿いに川徳百貨店が地下1階地上3階の鉄筋コンクリート店舗を完成させたのは1956年のことだ。建設に際しては、近い未来での増築が可能なように建築が成された。想像した未来はすぐにやってくる。第一次増築として地上5階建てになったのが1961年。たった5年後のことである。現在の旧ななっくの建物のうち、北側の約3分の1にあたる部分がこの時に完成している。

1961年に完成した第一次増築により、川徳本店は近代的な百貨店の表構を得る。最も特筆すべきは、屋上に設置された遊園地とガラス張りの展望台だ。盛岡の子どもたちにとって、屋上遊園地がいかに魅力的なものであったかを示す記録動画がある。

youtu.be

この時点の川徳本店の建物は、今のような歪な形ではなく、綺麗な箱型であることが動画や空中写真などで確認できる。なお、南側には搬入口あるいは社員用の空間であろうか、細長い建物が隣接している。

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1965年頃の空中写真・国土地理院より。第一次増築間もない川徳本店や、盛岡バスセンターおよび松屋デパートが視認できる。また、大通にはサンビルが完成している。

中ノ橋通と肴町に面する川徳本店の近隣には他にもいくつかの商業施設があった。1960年に完成した盛岡バスセンター*1や光ビル(のちのWithビル)*2松屋デパート*3などがあった。これらの商業施設は中ノ橋通に面している。中ノ橋通は昭和初期以降の市街地開発により、盛岡駅~開運橋~大通~櫻山~中ノ橋~肴町に至る一直線の道路が建設されることになり、いち早く完成した中ノ橋通の両側に大きなビルが幾つも建った。市役所や県庁からも程近く、岩手銀行の本店(現・岩手銀行赤レンガ館)や盛岡郵便局(現在のプラザおでってのある南側)などがあった。盛岡バスセンターという交通の要所があり、銀行や郵便局、そして多くの商店が立ち並んでおり、中ノ橋通および肴町商店街はまさに盛岡の中心だったのだ。

肴町商店街と川徳本店

肴町は藩政時代より商人が多く住む土地であったが、明治以後に商店街として発展し、盛岡の商業の中心となる。

肴町(さかなちょう)・生姜町(しょうがちょう)|盛岡市公式ホームページ

旧城下町盛岡の市街地形態の変化と都心地区の形成(梅林巌・阿部隆)1981

川徳の前身「徳田屋」*4も1875年(明治8年)に鉈屋町から肴町へ進出し、以降100年以上肴町で営業を続けた。肴町商店街の入口に立地する川徳は地元屈指の百貨店として大きく成長し、1956年に念願の鉄筋造の店舗を完成させる。その後も1961年に増築し、さらに1970年に新館を完成させるのである。 

1970年に、隣接する南側に地下1階、地上8階の新館を建設した。既存建物を増築した後、隣接地を取得し、新館を建てていくという手法は、前回紹介した仙台の藤崎本館とまったく同じである。

建物の繋ぎ目を愛でる(仙台・藤崎編) - SENDAI CITY LIFE MAGAZINE

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肴町商店街側に設けられた入口。

新館の特徴としては、肴町商店街側に豪華絢爛な入口が設けられたことだ。肴町側に拡張されるように作られた新館だが、おそらく用地が得られなかったのであろう、既存の建物と新館の間が空いている。この隙間は中三時代に埋められる。

おそらくこの1960~1970年代が肴町時代の川徳本店の全盛期である。しかし、この時期から盛岡の勢力図が大きく変わる。誘因は、1973年のダイエー盛岡店の開業と、1982年の東北新幹線開通に伴う盛岡駅の新築およびフェザン開業である。以降、盛岡の商業の中心地は大通および菜園地区に移っていく。 

大通商店街と菜園の台頭、および川徳の移転

大通と菜園は1930年頃に開発が始まった。以前は旧藩主南部家の所有地または県有地であり、農地あるいは岩手県立農学校の敷地として利用されていた。都市計画の一環として、盛岡駅から一直線上に結ばれる大通と、南側を並行して走る菜園通り、地域を南北に貫く映画館通りが整備され、急速に商業地域として発展していく。

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1948年頃の空中写真・国土地理院より。まだ内丸付近や桜城小学校のあたりは道路が開通していないのが分かる。

戦後は櫻山地区も整備され、1954年には東大通が開通し、盛岡駅から肴町までが一直線上で結ばれた。1962年に大通の東端にサンビルデパート(現サンビル)が完成し、他にも第一デパートや丸正デパート、イイヅカなどが立地した。商業施設が次々とでき、次第に大通商店街は賑わいを増していく。なお、現在も大通に店を構えるさわや書店は1947年に現在地にて創業している。1970年頃には、肴町と大通の小売業の年間販売額がほぼ同額となっていた。

大通の優勢を決定的にしたのが、1973年のダイエー盛岡店の開業である。現在のMOSSビル駐車場あたりに立地した。盛岡は近隣の都市に比べ、他県資本の商業施設の進出が少なかった。1963年に開運橋のたもとに月賦百貨店の緑屋、1969年に仙台本社の総合スーパー(GMS)エンドーチェーンが盛岡駅前に開店したものの、三越*5や十字屋*6といった百貨店や、長崎屋*7ジャスコ*8イトーヨーカドー*9などのGMSなど、近隣都市の中心商店街には進出していた商業施設がなかなか進出して来なかった中でのダイエーの襲来であった。

当時飛ぶ鳥を落とす勢いだったダイエーの効果は凄まじく、1970年代後半には大通商店街が肴町商店街を超える成長を見せた。また、1970年代には東北新幹線の開通に伴い、盛岡駅の新築工事が着工しており、盛岡駅には駅ビルとしてフェザンが入居する予定になっており、人々は肴町から大通や盛岡駅前に流れ始めていた。

時流の変化に伴う商業地の移動を重く見た川徳は大きな決断を下す。1980年、川徳
「パルクアベニュー・カワトク」として、菜園地区に移転を決めた。100年以上過ごした肴町との別れ、さらには建設から10年しか経過していない新館を手放すという決断は、あまりにも勇気のいる選択だったに違いない。川徳の移転から40年が経った今、肴町周辺の現状と川徳の現状を鑑みると、その決断は決して間違いではなかったと言えるだろう。

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現在、菜園地区に店舗を構える「パルクアベニュー・カワトク」。2020年で移転から40年になる。上階にはロフトが入居している。いまだにえびす講の時期は大混雑となる、盛岡唯一の百貨店だ。

中三への譲渡と増築ラッシュ

川徳が移転した際、建物は青森資本の百貨店である中三に譲渡された。中三は五所川原で創業し、青森や弘前に支店があった。1980年は青森県外への進出と多店舗化を進めていた時期であり、同時期に二戸にも進出している。

中三は建物を譲り受けるとすぐさま増築工事を行い、2,902.47㎡を増築して1981年5月に中三盛岡店として開業させた。この時、どの部分を増築したかについての確かな資料が見当たらないものの、おそらく既存の建物と新館の間の部分を増築していることが空中写真から分かる。なお、現在でもこの部分の繋ぎ目を外側から観測することが出来る。

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新館と旧館の間に他の店舗があったが、中三時代に間を埋めるように建物が建てられている。その名残が2つの繋ぎ目によって現れている。

さらに1983年には肴町商店街に全天候型のアーケードが敷設されると同時に1階部分5.51㎡(おそらく中ノ橋通に面する北東側の部分)を増築すると、1988年には、既存の建物の南側に地下1階から9階及び塔屋部分までの延べ面積、8,733.62㎡を増築した。この増築により、現在の旧ななっくと同規模の建物になったのである。

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垂れ幕を設置する部分が、その後に架設されたアーケードによって隠れてしまい、使えなくなってしまっている。

中三の閉店とななっくの開業、閉店

大規模な増床にも関わらず、肴町商店街自体の人通りが少なくなったことから中三の売上は減少しはじめた。追い打ちをかけたのが、2000年代以降に続々と郊外に大規模な商業施設が完成したことである。2003年にイオンモール盛岡、2006年にイオンモール盛岡南が相次いで開業、さらにロードサイドには専門店が続々と進出した。当時の中三は、五所川原店や秋田店の閉店などで大きな損失を出しており、ますます資金繰りが悪化。決定打となったのが2011年3月の東日本大震災の発災、およびその3日後に発生した中三盛岡店ガス爆発事故である。

中三デパート盛岡店ガス爆発事故に関する消防の原因判定書 - 法と経済のジャーナル Asahi Judiciary

中三は2011年3月に経営破綻。盛岡店だった店舗は閉店した。その後、建物を企業再生ファンドが引き継ぎ、2012年10月より「Nanak(ななっく)」として一部フロアから順次開業した。ななっくはテナントビルとして、ABCマートFrancfrancタリーズコーヒーなどが入居していたが、2011年8月にウィズビルが閉鎖、2016年盛岡バスセンターが営業終了し、中ノ橋通および肴町にかつての活気はなかった。ななっくは売上不振と建物の老朽化による維持費の増大を理由に、2019年6月で閉店。川徳本店時代から数えて63年間商業施設として利用され続けた建物がその役割を終えた。

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今でも、搬入口には中三時代の遺構が残されている。

いびつな部分がいくつもあるのは、幾度も増築を繰り返しながら肴町商店街を支えてきた証だ。そんな建物も近々取り壊しが決まっている。願わくは、最後にもう一度だけ建物の中に入ってみたいと思わせる、繋ぎ目好きとしては非常に魅力のある建物である。

 

*1:バスターミナルとして1960年に開業。当時は2階建てだった。1966年に3階建てに増築。バスセンター内には食堂や洋品店、いくつかの売店があった。近年は昭和レトロスポットとしても人気を博していたが、建物の老朽化により2016年に営業終了。その後、同場所に新たな「盛岡バスセンター」を建築する予定であり、先日整備事業計画書が策定された。

盛岡バスセンター整備事業計画書の策定について|盛岡市公式ホームページ

*2:1969年に「光フェアビルジュネス」としてオープンし、1973年にエンドーチェーン盛岡中央店が入居したテナントビル。盛岡バスセンターの向かいにあり、サテライトスタジオなどが人気を博した。エンドーチェーン撤退後はWith(ウィズビル)として古着屋「ハンジロー」などが入居していた。2011年に営業終了。跡地は高層マンションになっている。

*3:中ノ橋通の交差点の角にあった。画像で見る限り、川徳本店の増築と同時期には同じく鉄筋造の近代的な店舗を構えていた。跡地は靴屋になった後、現在はコインパーキングになっている。 https://jaa2100.org/entry/detail/040340.html

*4:1866年に川村徳松が木綿商として創業したのが川徳の発祥である。1898年に川徳呉服店となり、明治末期から昭和初期にかけて呉服だけでなく、洋服、寝具、服飾雑貨と品ぞろえを広げた。

*5:仙台に進出、その後小型店のみ盛岡に出店

*6:山形と仙台に進出

*7:八戸、秋田、山形、仙台、福島などに進出

*8:秋田、山形、仙台などに出店

*9:秋田、八戸、福島、郡山などに出店