MORIOKA CITY LIFE MAGAZINE

盛岡で暮らす、東北で生きる

貝ひもを買って、いい感じ【ボイスログ#3】

ボイスログ

日記を書く代わりに、ひたすら喋ったものを文字起こししています。録音した音声データは、アップロードすることもあるし、しないこともあります。

ボイスログ第3回目。そろそろ買ったマイクが届くんですけども、買ったマイクが届くまでは音質が悪いので、皆さんにお聞かせできるようなものはないということで引き続き文字だけで皆さんにお届けしています。

一応、第2回までは同じ日に録ってて、その後文字起こしやってみて、今日3回目になったんですけど、文字起こし見てみたら、いろんなノイズが多いですねっていう、自分の喋り方のフィラーとか、もろもろ、癖とか、そういうのを改めて感じて、なるほどなと思いましたけども。

そういうところを直していくというのも、実はテーマだったり、したりしなかったりするわけなんですが、それにしてもということで、昨日の夜、家に一人で、夜ご飯どうしようかなって思ってた時に、冷凍のお米があるぞと。

ただ米しかないぞという時にどうしようかなと思って、スーパーに行ったわけですよね。帰り道のスーパーに。帰り道のスーパーに行ったら、ホタテの貝ひもの加熱用のものが売ってたぞ。貝ひもだ!と思って。すごい貝ひも好きなんですよ。ホタテの貝ひもがね。で、これをバター醤油焼きなんかにして食べたら、うまいだろうっていうことで、それを買って、で、あと袋サラダ。袋にいっぱい入ってるサラダ、あれも買って、もうサラダとホタテの貝ひもとご飯でいけるやろうというお話で、で、家に帰ってきて、焼いて食べて、めちゃくちゃうまいっていう、そういう日だったんですけど。

この、2026年の6月22日に、スーパーでいい感じの貝ひもを買ってきて、それを焼いて、食べたんだという事実。この事実は、記録をしないと消えていくわけですよね。つまり、2、3日は覚えてるかもしれないけれども、貝ひも買ってめっちゃいい感じだったっていうことが、1年後覚えてるかって言ったら絶対に覚えていないし、10年後はもうスーパーとかも全部覚えてないわけですよ。それを、俺は貝ひもを買っていい感じだったんだっていうことを記録するのがボイスログですよっていうことですね。そう、俺はただ買い紐買っていい感じだったんだっていう6月22日にそうだったんだってことを皆さんに伝えたいんだという。

皆さんに伝えたいというよりは、自分が自分でそれを覚えていたいんだという、その気持ちを持って今喋ってますから。いや貝ひもうまいですよねっていう。貝ひもうまい。うん。本当にね、ただそれだけなんですよ。自分がやりたいことって。貝ひも買っていい感じっていうのを届けたい。ただそれだけっていう。

最近はあの、ご飯を。お米を炊くっていうこと、これに時間がかかりすぎるなーっていうのをすごい感じていて、お米を炊くっていうのが、まあ、1時間かかるわけですよ。炊飯器で炊くと。まあ、早炊きとかもありますけど、もろもろ準備して、米を研いで、セットして、まあ、1時間かかると。で、それをね、家に帰ってきて、やったら、9時とかになるわけですよ、夜の。

8時に家帰ってきて、米研いで、炊いたら、9時ですよ。そんなんもう夜ご飯じゃないよね、っていう。で、そうやってどんどん人はね、夜ご飯を雑にしていくわけなんですけども、これ良くない。これはマジで良くないぞと、やっぱ思い始めていて、やっぱ人間ね、ご飯は食べなきゃいけない。当たり前だけれども。

で、そのご飯の食べ方っていうのも重要で、その肉だけ食べるとかっていうのも、もちろん良いし、パスタ作って茹でて食べるっていうのもすごくいいんだけども、やっぱり自分に合った食事と自分に合ったスタイルがあるわけで、それを誰かに強制するわけでもされるわけでもなく俺はお米が食いたいんだっていう。このお米が食いたいっていう気持ちを食い止めていたのが1時間炊飯にかかるっていうことだったんですけども、当たり前に、当然のこととして、俺たちには冷凍庫があるんですよね。

だから冷凍庫にお米を入れとけばいいわけ。時間のあるときに炊いておいて。それこそ、夜帰ってきて、お米炊いて、今9時ですよ。9時なんだけれども、その9時に、パックに詰めて、冷凍していたお米が、翌日の、俺、8時のご飯になるわけですよ。これはね、あの、当たり前の話だよ。あの、こんなことを、エッセイに書いたって、なんも面白くはないんだけれども、けど、俺は、これを伝えたい。

9時にいつかお米を炊いたことが翌日とか、いつかの8時のご飯になるわけだから、俺は一回そこでお米をたくさん炊いて、冷凍させて、それをいつかの夜ご飯のために取っておくんだと。そういう気持ちを持って生活をして、その時にやっと貝ひもが生きてくるわけですよ。その時になってみないと。

お米がない状態で貝ひもを買ったら、ただの酒のつまみになるところを、俺はお米があるというこの安心感によって、それによってお米を炊いてね、家にあって、それによって俺は貝ひもをバター炒めにできるぞって思って生活ができる。それもスーパーに行く前から俺は思ってる。貝ひもがあったらバター炒めにできるぞと思ってる。そのことが一番大事であって、別に貝ひもは買わなくてもいい。

家に帰る。その前に、俺は貝ひもを買ったら、バター炒めにしてご飯と食えるし、イカそうめんの刺身を買ったら、イカそうめんを乗っけてご飯を食えるし、なんか味付いた肉みたいなのがスーパーでよく売ってると思うんですけど、あの味付いた肉みたいなやつを買ったら、それを焼いてご飯を食えるぞというこの無限の可能性を、俺はお米を炊くことによって獲得してるわけですよ。

お米を炊いていない自分には可能性はなかった。じゃあ主食になるものを作るっていう手間があるから、んー、パスタ茹でるか?みたいな、そういう、もう、ほぼほぼパスタに全ての思考が吸収されていくみたいな、そういう生活をしていた、俺は。だけれども、お米を冷凍したことによって、スーパーに行く前から無限の可能性が広がっている。そして俺は、このお米を食べないこともできる。

なぜなら、そこでスーパーに行く前にガストに行ってもいいわけだから、俺は。でもこれも、お米を冷凍している前と後では全てが変わっていて、つまりお米がないときにガストに行くというのは、妥協の産物で、家に食うもんないからガストに行こうだったのが、それが、俺はお米を冷凍しているから、冷凍のお米をチンしたら食えるけど、でも俺は今日の俺のすごい頑張りを称えたいからガストに行くんだっていう、そういう気持ちになるわけじゃないですか。もう、お米を冷凍している時点で勝ってる。俺は。全てに。生活に勝っている。

だから、お米を冷凍するということは、生活に勝利するということであって、つまり、俺は今、生活に勝利している状態。今日も俺の冷凍庫には1合のお米が入っているわけ。冷凍しているお米を解凍することもできるし、しないこともできる。無限の可能性が俺には広がっている。だから、みんなもお米を冷凍しよう。これを伝えたい。お米を冷凍しよう。

今、生活に悩んでいるとか、なんか悩みがあるとか、悲しいことがあったとか、どうしてもうまくいかないことがあるとか、人間関係で悩んでるとか、いろいろあると思う。今お前が何をすべきか。お米を冷凍しろ。本当にそうだぞ。うん。みんなやってると思うけども。もうやってると思うけどね。

なんで今、32歳になる男が急にこれに気づいたんだって話なんですけど、ひとえに、これは一人暮らし経験の乏しさですよね。いかに今まで人にご飯作ってもらっていたかということの吐露でもあるわけですけど、でも、でもね、いつ気づいたっていいんですよ、人間は。人間はいつ気づいたってよくて、いつ冷凍のお米が生活を豊かにするってことに気づいてもいいんです。そう、いつだって大丈夫。

20歳過ぎてから、そういうのに気づくのに、遅いとかない。気づいたら、その気づいた時点からのあなたの人生は豊かなんだから。だから、俺はこれからもお米を冷凍する。そう。そして、貝ひも食っていい感じになるから。ね。もう、本当に貝ひも食っていい感じかどうかですよ。世の中は。うん。なんてね、皆さんもぜひお米を冷凍していただければと思いますので宜しくお願いします。

 

俺は俺を脳に見せているんだ【ボイスログ#2】

ボイスログ

日記を書く代わりに、ひたすら喋ったものを文字起こししています。録音した音声データは、アップロードすることもあるし、しないこともあります。

はい。ボイスログ2回目でございます。なんといってもボイスログという名前を大事にしていきたいという熱い思いがあります。

最近のこの閉塞感についてちょっと吐き出してみようかなと思っていて。やっぱり、落ち着いてきたからだと思うんですよね。ある程度、仕事にも慣れて、盛岡での暮らしも慣れて、自分の持っているものでできることが増えてきたというか。今までは、獲得をして、自分のできることを拡張していった先で何かができるみたいなところだったのが、だいたいもう5年目にもなってくると、もうだいたい知ってますよっていう。その自分のできることとか、分かっていること、知っていることっていうことが、そのまま、日々の生活にそのままダイレクトに反映されるというか、なので割とできることだけでやってるみたいな感じに少しずつなってきているなあという感覚は正直ありますね。

解消する術は、より難しいものに挑むとか、自分の新しい知識を獲得するとか、結局そういうことになってくるのかなという感じはしていますから。そのためには勉強をする、学習をする、何か新しいコミュニティに出ていく、みたいなことが大切なのかなと思ってますけども、そんなね、自己啓発的な気持ちがなくたって生きていきたいじゃないかっていう。

自己啓発をやらなくてもいきいき生きたいっていう。これは無理なのかもしれないけど、無茶なのかもしれないけども、その自己啓発的なものに回収されたくはないんですよ。だから、焦って資格取るとか、いろんなね、あるじゃないですか、あとはもうビジネス本にハマるとか、自己啓発本めっちゃ読むとか、社会人のコミュニティに入るとか、すごい前向きな朝活するぜみたいな、読書するぜみたいな、そういう前向きな自己啓発に取り込まれることなく、俺は生きたいんだという、そういう覚悟をね、どうやって解消するかというところで、俺はボイスログをやるっていう。

これもちょっと自己啓発なんじゃねえかって話はあるんですけど。まあ、いろんなね、考え方、捉え方はありますけど、とにかくね、そういうダサいものとして自己啓発を捉えているのはなんでだろうというのはあるんですけど、そういうものに回収されることなく、自分で、獲得していった知識によって、道を切り開いていきたいという思いがあるわけですよね。それは結構健全だと俺は思うんですけど、その健全さの中で、自己啓発をすごく嫌がる、嫌悪するっていうのは、あまり健全ではないけれども。

いや、難しいですよね。結局、マスを取っている、大衆の心を掴んでいるものって、結局はやっぱり良いんだなというか。だから結局、自己啓発的なものが消えないっていうのはそういうことなんだろう。廃れないっていうのはそういうことなんだろうと思いますけど。

でも本屋さんに行ってさ、本屋さんにパッと入った時に、一番最初のこの見える棚、入口を開けて、一番最初に見える棚に何が置いてあるかって結構重要で、もうその本屋さんのステートメントじゃないけれども、うちはこれで行きますぜっていう宣言じゃないですか。パッと開けた時に、ホリエモンとかひろゆきとかが並んでるとマジでガッカリするというか、もうこの本屋見るもんねーわっていう、そう思っちゃうぐらいクソつまんねーなって思うところは結構あって、そういうのに取込まれていく感じ?もう、多分ね、もうホリエモンもひろゆきも論破なんて言ってないと思いますけど、でもそういうなんというか、マウントを取っていきたいというその気持ちが、そこの本屋にあるというのは、非常に良くないというか、他者ありきというかね、評価軸が。そうじゃなくて、自分で何かを獲得するんだと、その自分の体験を語るんだという、自分の感想を語るんだという、そういう思いを持った本が、本屋の一番最初のパッと開けた見えるところに置いてってほしいわけですよ。

そのためにはまず自分がこの自分をどう見つめているか、そして自分を通して社会をどう見てみるか、このフィルターどういうふうなフィルターで自分は世界を見ているのかっていうのをきちっと把握するためには言葉にすることが必要だと思っているし、別に言葉じゃなくても絵でもいいし、図示してもいいし、別に言語にする必要はないんですよ、ちゃんと把握ができていれば。それがね、謎の図形でも別にいいんですよ、ちゃんと把握できてさえいれば。ちゃんと把握さえできていれば、別に言語化は必要ない。だから何らかのモチーフは必要ということで、そのモチーフを何で俺は作っていくかっていうと、文章ではなくて音声だと思っているので、喋るっていう。ひたすら喋って自分が何を考えていて、何を目指しているのかっていうのをちょっと捉えていきたい。

それで言うと、自分タイピングがものすごい苦手なんですよ。パソコンで文字を打つっていうのが、タイピングがすごく下手で極端に遅いんですよ。本当はこのタイピングを練習した方がいいんですよね。なぜなら、タイピングが遅いことによって、自分が考えているこの思考、脳の中にある言葉を、直接インターネットに落とし込めてないんですよ。タイピングが苦手なので、自分が考えている文字数の3分の1とか4分の1とか、下手したら10分の1くらいまで縮小されたものがタイプされている。だから自分の思考丸ままじゃなくて、自分の思考のめっちゃギュッとしたところだけがタイプされている。文字が打たれている。それを考えた時に、それってすごい本当にもったいないことなんじゃないかなと思っていて。

自分はガラケー世代なので、もともとガラケーの文字を打つというところは結構、割と早く打てたんですけど、スマートフォンになってから、どんどんスマホが大きくなってきたことによって、スマホもちょっと自分の考えている速度と打てている速度はやっぱりちょっと違うと。

自分の思考よりも、追いつけるぐらいに文字が打てる装置って何なんだって言ったら、発話なわけですよね。言葉を発するということ。自分と脳を直接インターネットに接続させる唯一の手段であって、それが最近文字起こしとかをできる、AI文字起こしみたいなソフトとかもいっぱい出てきているから、自分がやっと自分の思考、自分の考えていることとか、自分の脳内にある全てを吐き出せる、インターネットに吐き出せるっていうのが、ついにできるようになった。

ただ、自分は音声も好きだけど、結局は文字で見たい人間でもあるから、やっぱりそれを文字にしたいということで、自分の喋っているものを文字にする。だからこそのボイスログなんですけど、そういうのをね、どんどんやっていこうということで始めてますから、とにかく自分の脳を直接ね、皆さんにお見せをしたいという、パカッと開けてですね、ぜひ見ていただければというところでやってますから。

でも結局は自分に見せたいだけなんですよね。自分の脳って自分で見えないですから。変な話ですよね。結局自分の脳も自分から見えないわけなんですよ。だから自分の脳を自分に見せるには、発話をしていかなきゃいけないわけで。見せるっていうか、聞かせてもいいんですけどね。そういう手段。

取るためには、やっぱりこの言語化っていう言葉はすごい好きではないですけど、なんか脳に見せるために喋ってる感じ。脳に見せてる、俺は。俺は俺を脳に見せているんだという。そういう感覚で喋ってますんで。とにかくまず一旦脳に見せようという。自分の自分の認識を自分がどう捉えてるかを。

脳に見せていきたいという。これも身体ですよ。自分の身体性を脳に見せていく手段として、ボイスログというのを始めているわけですから。喋っていないと、この15分がなかったことになるんですよ。

どういうことかというと、AIの時代になりましたという時に、すでに文字を打つ、文字を作る、要するに文章を作る、ある種コンテンツのための文章を作る。文章作りっていうのは、これからどんどん人間が作り出したものではなくて、人間が断片を作ったもの、断片を渡したものがAIが整えるっていう時代にどんどんなっていくわけで、長い文章っていうのがすべてAIのものになっていくと思うんですよね。

もちろん短い文章はまだまだ人間が書くと思うし、断辺、切り貼りできるぐらいの断片みたいなものとか、アイディアみたいなものはこれからも引き続き人間から出てくと思うけれども、それを最終的にコンテクストの中で長いテキストにしていくっていう作業は、おそらくだけれどもこれからAIがやっていく、になっていくんですよ、絶対。そうなった時に、今、私がここにいて、私が考えている一万字、今自分が考えている一万字というのは、出力されなければ、無いものになってしまって、代わりにAIが出力した、なんとなくこんなもんだろうという一万字が出力されたままの世界になっていくっていう、これは本当に危機感を持っていて、だから今、俺がAIじゃない日本語、自然言葉を一万字、喋る必要がある、と思っている。それをAIが学習してもいいじゃないとは思うんですけど、結局自分が今ここで生きていて、記録をしなければならない。なぜなら記録をしないと、言葉はどんどんAIに取られてしまう。AIがどんどん作っていってしまう。

そうなった時に、おそらく、人間の言葉の刻み方や、人間の言葉の書き方も、AIに寄っていくと思うんです。なぜかというと、人間は学ぶ生き物なので、読んだものや、見たものから、作法や、レギュレーションを学んでいくと思うんです。

最近、AIが書いたような文章を人間が書いていることが結構あるんです。それは多分AIから人間が逆に学習してるっていうところで、AIの文章が読みやすくなってきているから、それが読みやすいんだという共通認識を得たときに、人間がAIっぽい文章を書くっていう、そこまで来てると思うんですよ。AIが章立てをするところとか、強調表現を作るところとかが、こっちの方が読みやすいんだっていう風に、このAIが作ってある文章がどんどん増えていった時に、こっちの方が人間がわかりやすくなってきたっていうそのタイミングで、人間はAIみたいな文章を作り始めるんで、俺はそこから逃れるために喋っていて、人間の文章を残し続けるんだという謎の使命感に今駆られて喋っているという、そういうボイスログですので、ぜひ引き続きお付き合いいただければと思っております。

ぬいぐるみを持つか、チャーメラを持つか【ボイスログ#1】

ボイスログ

日記を書く代わりに、ひたすら喋ったものを文字起こししています。録音した音声データは、アップロードすることもあるし、しないこともあります。

はい。試験的にね、録音をしてみるわけなんですけれども。VlogのVはビデオで、ボイスもVだからすごい分かりにくいんだけども、「ボイスログ」ということで。Podcastとも違うボイスログをやっていこうかなと思うんですけれども。

今はね、本当にPodcastの時代なんで、これをPodcastと言い張ることだってできるわけなんですけど、もうボイスログだと。Podcastって結構有益な話をしなきゃいけない風潮があるし、有益じゃなかったとしても、コンテンツとして成り立たそうというその気負いみたいなものがあるじゃないですか。気負いと気合いね。気負いと気合いみたいなものがあると思うんですけど、そんなことは関係なく、ただ喋っているぞというのを記録して、その記録したのが一日の記録になっていくのが積み重なって、それが人生の記録になっていくぞと。それはPodcastと何が違うのかと言われたら、気負いがあるかないかって言う。ただそれだけっていう。本当に。だから聞く人にとってはPodcast的に聞く人もいるだろうし、ボイスログなんだなと思ってくれる人もいるだろうし、本当にただの、なんかよくわかんない音声だなと思う人もいるかもしれないという。そういう感じのところも含めてのボイスログという、「発明」をやっていきたいと思うんですけれども。発明かこれ。別にそうでもないぞ。というわけでね、営業車に乗りながら、この営業車の中で喋っているというわけなんですけども。

普段、営業車の中だと、基本は音楽かPodcastを聴いていることが多いんですけど、他人のコンテンツにだけ左右される人間になるなよという話ですよ。自分で作品を作っていくんだという気持ちはないのかと。ないのかと言われたら、大体の人がないんですけど。そうやっているうちに、1ヶ月前に何が面白いと思っていたかとか、昨日何が楽しかったかとかが、どんどんなくなっていくんじゃないかなというのを危惧していて。今、盛岡に引っ越してきてちょうど丸4年になって、5年目という感じになるんですけど、正直言って盛岡に来る前のことを全く覚えていない。仙台で暮らしていた時のライフスタイルを一切覚えていないぐらいになっていて。あの時こうだったなーっていう記憶って、その連続性の中にいなければ、弾かれてしまうというか。盛岡に来てからのことは覚えてるんですよ。そこには連続性があるから、同じ家に住んで、同じ人と暮らして、同じ仕事をして、これで例えば転職したとしても、同じ家に住んでいるというところとか、同じ土地に住んでいるというところで、若干の連続性は保たれるわけですよ。ただこれが土地が変わって、仕事も変わって住む人も変わってっていうことになると、連続性っていうのは切り離されてしまっていて、すると途端に仙台で何をやっていたかっていうのを全く思い出せなくなるんですよね。連続性を保つための作業としてこのボイスログが、何年やるかわかんないんですけど1年2年3年ずっと続けていく中での連続性の記録として、何か意味を持つものになるんじゃないかなというふうに思っているので。連続性の記録というのをやっていきたいというのが、ボイスログを始める一つの理由というか、鍵になるわけですよね。

このボイスログを始めるにあたって、とりあえずは今はApple Watchで録音をしているわけなんですけども、おそらくものすごいノイズが乗ると。車を運転しながらなので、ものすごくノイズが乗ると思うので、もうマイクも買ってね、そのぐらいの気合でやらせていただこうかなというふうに思っているわけなんですけど。絶対ね、そういうのやっていった方がいいですからね。基本的に、クリエイターの方々は作品を作るわけで、映像なり、もしくは美術なり、もしくは文章なり、そういった形で何らかの作品を残していくわけなんですけれども、そういう人たちじゃない人たち、映像を作るわけでもない、絵を描くわけでもない、文章をそんなに書くわけでもない人間たちが、何を残せるかというと、基本的には今のところ何も残せないんですよね。何も残せないんだけれども、本来はそれで良かったはずなんですよ。人間全員が、何億人が、この何十億人が一個一個作品を残せるかって言ったら、まあ別に残せないと。なんだけれども、SNSの時代、インターネットが発達したことによって、カジュアルに作品を残すということが可能になってきたと。今までだったら、すごくコストがかかって、何百万円かかって自費出版していたものを、noteに記事を10本あげて、それをマガジンにするだけで1個の作品みたいな、そういうところがあるんで。本当に作品を残すハードル、作るハードルももしかしたら下がっているのかもしれないですけど、残すハードルっていうのはもう圧倒的に下がってきた。

そうなった時に、いよいよ作品を作って残す人と、そうじゃない人の差がものすごく生まれるようになっていて。もちろんクオリティの話で言うと、たまたまこの時代に生まれたから残すようになった人の作品のクオリティって別に高くはないと思うんですよ、全然。ただそういう環境にあったから、文章を書いて残しているという、そういうものだとは思うんですけど。時々それが、素晴らしいもので、商業出版になったりとか、商業出版にならなくても素晴らしい作品ってのがいっぱいあるわけなんですけども、それとはまた別のベクトルで、ある種、そんなにもクオリティが高くないようなものを、バンバン作って残していける時代になったのに、そこにアクセスできていないと、作品ができない。つまり、文章を書く人、絵を書く人じゃないと、作品が残せないっていう、この非対照性をどうにかするために、私は喋るしかないっていう。ボイスログをやるしかない。でも、作品を残したいわけじゃないっていう。いろんなジレンマがあるという。その謎のジレンマと戦いながら、喋っているわけなんですけど。

32歳になる年なんですけど、繰り返しをだいたいわかっているわけで、この繰り返しの中で、どう打破していくか。やっぱり盛岡の暮らしも5年目になると、だいたい一緒の繰り返しだなっていうのが見えてくるわけですよね、ルーティンが。もうこの時期になると暖かくなってくるね。この時期になってくると雨が降ってくるね。だとしたらこの時期にこの仕事をしないといけないね。みたいな繰り返しがわかってくるわけで、この繰り返しっていうところが、刺激を生まなくなってくると、ちょっと苦しいなっていうところは絶対にあるんだろうと思いますけど。刺激をね、どうやって保つかっていうところが、これからの30代のテーマなんじゃないかなと思ってますし。

みんなはその刺激をどうやって打破してるんだろうっていうところは非常に気になるわけで。自分は何をするかっていうところで言うと、勉強するしかないんじゃないかなっていう。打破の仕方としては、学習ですよね。自分にない知識を、獲得する、取得するっていうところで、これは勉強しかない。ということで、30代になって、なかなか勉強できてなかったですけど、改めて勉強を始めようかなというふうに思ってますけど。やっぱ20代の時とか10代の時の学習とは、何が一番違うって、やっぱスマートフォンがあることだよね。スマートフォンが俺らの集中力を奪うのよ。とにかくスマホ触りたいし。もう依存症ですよね、完全に。完全にスマートフォン依存症。とにかく触りたい。もうひたすら触りたい。今だって触りたい。で、その触るの、スマートフォンを触るのから、どうやって遠ざけるか、自分を遠ざけるかっていう工夫が多分いろいろ必要で、それが例えば、スマートフォンを鍵のある箱に隠すみたいな、学生とかがよくやってる、ああいう工夫だったりもするかもしれないし、もしくは別室にね、スマートフォンを置いておくみたいな、そういう工夫なのかもしれないし。とにかくこのスマホを触らないための工夫って、もちろんいろいろね、あると思うんですけど、例えば自分だと手にもう物を持っちゃうとかね、すげー原始的なんだけど、手に。例えば、ぬいぐるみを持ってしまう。ぬいぐるみを持っていると、スマホが持てないんですよ。これは発明ですよ。発明。スマートフォンを使うためには、ぬいぐるみを一回置かなきゃいけない。ぬいぐるみを置くっていうのは、結構大変なことなんですよね。汚したくないし、ぬいぐるみっていうのは。その辺のところに置いておきたくないから。だからぬいぐるみを持って出かけると、スマートフォンを触れなくなるっていう。これはかなりのライフハック。あと最近、チャーメラって言って、キーチャームみたいな感じのサイズ感のカメラっていうのが、トイカメラですよね。遊びのカメラがあるんですけど、あのトイカメラのチャームの輪っか、キーリングを指にかけちゃう。指にかけちゃうと、手のひらの方に、そのカメラが、ちっちゃーいカメラが、手のひらに当たるんですよ、ずっと。で、手のひらにずっと当たってるから、スマートフォン触りにくいわけで、なので、あの、トイカメラ、チャーメラをつけてても、指につけてても、これはスマホがやりにくい。これも発明。なので、最近はぬいぐるみを持つか、チャーメラを持つかっていう。

ぬいぐるみを持つか、チャーメラ持つかですよ、時代は。やっぱりスマートフォンの依存から自分をいかに遠ざけるか。情報の洪水をどうやって浴びないか。スマートフォンから浴びる情報じゃなくて、自分の目とか鼻から感じる、この五感で感じる、今のこの全てをどうやって感じ取るかっていうと、チャーメラ持つかぬいぐるみ持つかなんですよ。

やっぱりここは戦いですよね。自分でどれだけスマホを遠ざけて自分の新しい知識を獲得していくか、体験っていうのを自分の身体的なところをどうやって確保していくかっていうのは引き続き戦いだと思うんで、そういう戦いも含めてこのボイスログでは記録していければなと思いますけれども。

参考URL

・チャーメラ

KODAK Charmera | Film Camera

『男らしさと女らしさについて考える』朝井麻由美 TSUNDOKU BOOKS

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ポッドキャスト『物書きと本屋の「ほんとのこと」』の書き起こしをベースにした、ライターの朝井麻由美さんと本屋「TSUNDOKU BOOKS」の店主・長嶺李砂さんの本。

いわゆる「ジェンダー規範」についてのさまざまな疑問について2人で議論していく構成ですが、「女らしさ」の話にとどまらず、『戻れないけど、生きるのだ 男らしさのゆくえ』の著者である清田隆之さんをゲストに招いていることで、「男らしさ」についても取り上げられているのが面白かったです。

朝井さんが東京生まれ東京育ちかつ「カルチャーおじさん」だった父の影響について認識をする『親の影響』の項では、ジェンダー規範の押し付けには家庭環境や時代や地域差などの、あらゆる条件によって濃淡が変わるものだという、当たり前だけれど当事者からは見逃されがちな観点が取り上げられています。地方には「男らしさ」「女らしさ」の必要性を無意識に信じている人たちがまだ多いと、盛岡在住の自分でも感じるのですが、それによる失礼な瞬間に立ち会ったときに、ちゃんと反応できる自分でいたいなと思います。

 

さよなら、また今度ね「いったんワンマンライブ」@代官山UNIT

2026年5月30日。早起きして部屋掃除をして、盛岡駅から新幹線に飛び乗る。さよなら、また今度ねの復活ワンマンライブを見に行くために。

 

さよなら、また今度ねは高校生の頃に出会った。YouTubeで、めちゃくちゃ変な音楽と変な動画をあげていて、こういう人たちが天才なんだなと思っていたら、あれよあれよという間に売れて、デビューして、どんどん大きくなっていって、これから、という時にあっさりと活動休止してそのまま解散してしまった。

- YouTube

2013年頃はサブカルという言葉が機能していた最後の時代だったと思う。変なものが変なまま、バズらないままに存在していて良かった。まだバズという言葉もなかった。ヴィレッジヴァンガードが元気だった。あらゆる動画のテロップのフォントがダサかった。

高校生の頃は仙台から東京にライブに行くなんて金銭的にも時代的にも考えられなかったから、彼らのライブを見たことはない。長く生きているといいことがあるなあと思う。みんながんばってきて良かったよ。

開演前に物販へ。

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だいぶふざけている。しかも童謡が流れている。「つぎのおともだち〜」と呼び出されてTシャツを買った。デザインが本当に往年のサブカルの感じで最高だった。好きなバンドはだいたいこのテイストのバンドTを出していた。

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会場の代官山UNITに入ると、そういえば東京のライブハウスに行ったことがなかったことに気付いた。代官山UNITとか下北沢シェルターとか渋谷WWWとか、名前はよく聞くし写真も見るけど実在しているかわかんない場所。入ってみると仙台のライブハウスとなんら変わらないのに、なぜか神聖な場所に思えるから不思議だ。

そんな神聖な場所の客入れのBGMではいろいろな音頭が流れていた。いろいろな音頭?

 

マジで「さよ今っぽい」としか言いようがない、シュールな映像が開演前に流れてから、スペシャルゲストのランジャタイ国崎さんが登場。国崎さんがさよ今が好きなの、あまりにも分かりすぎる。そりゃそうだよな。持ち時間が10分あったらしいが、早くメンバーを呼び込もうとして何度も退場し、さすがに早すぎると言われて何度も戻ってくるのが、ランジャタイの名作漫才「このくそったれ人生にさよならポンポン」と同じような流れになっていて、めっちゃくちゃ良かった。

- YouTube

メンバーが登場。びっくりするくらい12年前とみんな変わってない。もっと髭もじゃもじゃとかになってていい年月なのに。菊池さんが絶妙に変な髪型なのも変わってない。なんでだよ。登場から大はしゃぎのベースの佐伯さん。変わってない。渋谷さんは素敵なお召し物。素敵です。

一曲目は「in布団」。もはや国歌。佐伯さんが泣きそうになっている。あと菅原さんは12年でめちゃくちゃ歌がうまくなった。元からいいボーカルなんだけど、表現力が段違いになっている。

そして「ミルクアイス」「瑠璃色、息白く」と代表曲の連発。というか、さよ今には代表曲しかないのであった。とにかく楽しい曲の連発。おそらく普通のライブよりも手拍子を叩く頻度が多かった。会場にいる全員が、楽しい!という感情を共有している。

中MCで佐伯さんが「曲とかいいから喋ろうよ、曲はSpotifyで聴けるからさ〜」と身も蓋も無いことを言っていてすごくよかった。わかるよ。喋りたいよな。同窓会みたいなもんなんだから。でも、そもそもSpotifyで聴けるようになったの今年の話ですからね。曲だって12年待ってたようなものなのだ。

「輝くサラダ」や「踏切チック」でボルテージはさらに高まる。変な曲たち。変な曲で全員が笑顔になっている。その間に挟まれた「いいわけの鉄拳」「素通り」の良さもまた、さよ今らしさであるし、それで言うと最もさよ今っぽいと感じるのは「ギンビス」なんだけど、生で聴けて本当に良かった。

本編ラストは「僕あたしあなた君」。観客に歌わせると、思った以上にみんな歌えて驚きつつうれしそうな菅原さん。楽しすぎると泣けてくるし、泣くことを忘れるくらい楽しいこともあるんだなと思った。

アンコールでは、渋谷さんのお色直しもあり(さらに良い服だった)、なんともハートフルなモードで「夕方とカミナリ」へ突入。

やったらやりっぱなしの僕だけどさ

君が「夕方」なら僕は

「カミナリ」を打てるくらいの

才能を 努力を 情熱を 放ってやる

 

ーさよなら、また今度ね『夕方とカミナリ』

なんて素敵な歌詞なんだろう。

アンコールラスト曲は「信号の奴」。終わってほしくない気持ちもあったけど、マジでやってほしい曲を全曲やったな、と思ったので、本当に嬉しかった。

 

アンコール終演後、大円団、ということで、渋谷さん以外の3人が手を繋いでお辞儀して退場。PUFFYの「愛のしるし」が流れ、ひとり取り残される渋谷さん。真顔でモニターに顔が大写しにされる。あんなにかっこいいライブをやった後でも、12年ぶりでも、関係なくふざけ切るのがさよ今。

そして終演かと思われたが、アンコールの手拍子が鳴り止まず、予定外のダブルアンコールに。もう既に練習した曲をすべてやり終えてしまったため、やってほしい曲を拍手の量で決めることに。選ばれたのは「僕あたしあなた君」。2回目なのにもっと嬉しい。美しく!美しく!美しい!美しい!と本気で思った。

最後は渋谷さんも加わって、4人で並んでお辞儀。さすがにふざけ切れないよね、こんなにエモーショナルな日は。夢みたいだ。

 

仕事上ではAIを信じているし頼っているが、気持ちの面では割り切れていない

仕事上ではAIを信じているし頼っているが、気持ちの面では割り切れていない。

 

生成AIの普及以降、自分の仕事にもどんどんAIが入り込んでいる。入り込んでいるというか、使いまくっている。特に去年からはAIエージェントが普及してきて、チャットを一行打ち込むだけで、Googleカレンダーに予定を入れ、notionに学習内容を共有し、Gmailでメール作成もできるなど、あらゆることが可能になっている。

AIエージェントを駆使している人間は多くなっているが、地方の中小企業の社員ではやや珍しいので、社内でAI活用の推進役を担うこともある。しかし、AIの話をすればするほど、どんどん虚しくなっていく自分に気付く。

既にTwitter上のテキストの多くは生成AIによって書かれている。いわゆる「インプレゾンビ」の文章もそうだし、2026年に実装された長文投稿機能(Articles)で投稿される文章のほとんどがAIで書かれているか、推敲やアイデア出し、構成など、何らかの形で生成AIが使われていると思われる。

Twitterだけではない。仕事で目にするメール、社内のTeams投稿、さらには休日に読む小説まで、あらゆるテキストはAIに侵食されている。もはや人間が書いた文章とAIが書いた文章の見分けはつかない。作品のほとんどを生成AIの出力で作り上げた短編小説集を出版した作家の樋口恭介さんは、読売新聞の取材に対して「どこまでが人間の執筆で、どこからがAI執筆だったのかを、後から追えなくなる。今が歴史的な臨界点だ」と語っている。

AIと小説「今が歴史的臨界点」 ほとんどAIで作った実験短編集を刊行 樋口恭介さん : 読売新聞

この文章はAIを一切使わずに書いている。しかし、このことを信用してくれる人はどんどん減っていくだろう。文章を書くことにAIは必須になりつつある。たとえば小説家が手書きの原稿用紙からワープロ、そしてパソコンでの創作に変わったように、自然な流れで置き換わっていく。

遅かれ早かれ、人間はAIを生活のあらゆる行為に組み込むようになる。労働、アート、音楽、執筆、宿泊、移動、契約。どんどん我々はAIを使う。この流れは不可逆だ。スマートフォンなしでは生活できないように、AIなしでは暮らしていけなくなる。

その先の未来に何があるのか。利便や理解を超えて物事が通り過ぎていく時代が到来する。まるでマリオカートで「ダッシュ床」(踏むと加速する矢印模様のギミック)のある場所だけをひたすら通っているかのようだ。なんだかわからないけど速い。わからないうちに、今まで1時間かかっていたことが1分で終わる。AI、あるいはダッシュ床の開発者ではない我々が分かるのは、速いということだけである。

だから、自分がAI活用について、何を言っても、結局は「ダッシュ床を踏むと速いんですよ」みたいな話になる。

速いのはわかる。けれど、生活はマリオカートではない。速くてなんの意味があるのか。AIがとても便利で、賢くて、世界を変えていて、誰かを救って、役に立つのかは知っている。その上で、改めて思う。

速くてなんの意味があるのか。

日本の道路交通法は1960年に交付された。交付の際に、一般道路の上限速度は60km/hに設定された。それから60年以上が経った今も、一般道路の上限速度は変わっていない。おそらく今であれば300km/h以上の最高速度を出せる車は作れるはずだ。さすがにそれは極端だとしても、100km/hくらいなら市販されているどんな車でも簡単に出すことができる。また、安全装置や自動運転の開発も進んでいる。危険性や運転技術などをテクノロジーで解決することは、その気になればできるだろう。

けれど乗用車の速度は60km/h上限のまま変わらない。なぜか。これ以上速いとついていけないからだ。速さに身体が間に合わない。同様に、AIによって処理や出力が極端に高速化すると、身体が間に合わない。

AIの台頭、普及によって、「人間にしかできないこと」に注目が集まっている。よく挙げられるのは、身体性である。AIは身体を持たない。人間は身体を持つ。だから、身体性こそが人間を人間たらしめるものだ、と、信じられている。

しかし、AIの驚異的な速度を前にして、身体はもはや不要であると言える。身体が、理解が、脳が、感情が、ボトルネックになる。働けば働くほど自分が不要になっていく感覚。自動的にダッシュ床を踏まされて、どんどん先に進んでいる。この先の未来に何があるというのか。だから仕事中、みんなも速く走れ、つまりAIを使えと言っている自分が、とても虚しくなるときがある。

仕事を離れれば、今はAIを使わなくていい。自分の意志で、ちょうどいい速さで進むことができる。私は私の不要な身体を取り戻す。取り戻せるうちはいい。いつか生活にAIが入り込み、身体がどんな時でも要らなくなるときに、どんな生活が待っているのだろう。

『カット・イン/カット・アウト』松井玲奈(集英社)

虚構の中にある「本当性」の物語

世に出ている小説はどうしても「誰が書いたか」という情報が付随する。それがマイナスに働くときもあるが、この小説に関しては、彼女がこれを書いた、ということが大きな意味を持つ作品になっている。

著者の松井玲奈さんはアイドルグループ・SKE48のメンバーとしてデビューし、その後は俳優として活躍。舞台やドラマなどを中心に、出演作は途切れることがない。一方で執筆活動も精力的に行なっており、これまでに3冊の単行本小説と3冊のエッセイ本を出版している。

『カット・イン/カット・アウト』で描かれるのは、劇団の公演にゲスト出演するアイドルと女優、この2人の人生である。まさに松井さんがこれまで経験をしてきた業界のことを書いているわけであって、この小説の魅力のひとつは描写の細かさ、リアルさ、切実さである。

 

 

ーーーここからは小説の内容についての言及を含みますーーー

 

 

元国民的子役であるアイドル・中野ももが、初挑戦となる舞台の稽古で、演出家からの言葉や本番までの時間の無さによってプレッシャーを感じ、追い詰められていく。演劇公演の稽古の大変さや、アイドルが演劇に出るときの難しさなどの描写があまりにもリアルだ。さらに、アイドルグループのメンバー間の会話、他のメンバーとのキャリアの違いによるギャップ、アイドル活動と舞台の掛け持ちの多忙さによる他のメンバーとの関係の変化など、主題ではないところにも描写の強度があり、読み手を飽きさせない。

細かい話になるが、アイドルのマネージャーが個人仕事の現場についていく、いかないという問題をきっちりと書けるのは、本当にその体験をした人くらいではないかと思う。そういった意味で、かつて当事者だった人間が書く小説として、非常に意義があるものになっている。

主人公である「売れない舞台女優」である坂田まち子(通称マル子)は、中野ももの代役を見事に務めたことから注目を浴び、テレビドラマの世界に進出していくものの、多忙の中で自分を見失い、壁にぶつかっていく。中年女性の急なブレイクという、外から見るとワクワクする展開と、憑依型俳優が憑依する対象を見失い自分を消費していく姿のギャップが興味深い。

カット・インとカット・アウトは、演劇用語では急に照明や音楽を入れたり消したりすることだ。誰かに急にスポットライトが当たる。または、ライトが消える。光が当たったマル子と、光が消えた中野もも。舞台とテレビドラマ、両方の違いと難しさが克明に描かれる小説は貴重だ。しかも、これらが観劇者の視点や、女優のマネージャーの視点からも語られることが、この物語を立体的にしている。

この小説で一番面白いなと思ったのは、マル子の飼っているペットと思われる「かめちゃん」が実はただの亀の子たわしであることが、物語のかなり後半に明かされる、という仕掛け方である。これ自体は非常に些細なことなのだけれど、最終盤に、代役を見事に務めた舞台でのマル子の演技は、中野ももの完全なる「憑依」の演技であったことが明かされる。読み手が、亀の子たわしが亀だと完全に騙されたように、観劇者はマル子の演技が0から作られたものと思い込み、評価をする。かめちゃんの「プチ種明かし」があるからこそ、マル子の演技についての大きな種明かしが、非常に自然に入ってくるという点で、秀逸な仕掛けだと感じた。

芸能の世界には「虚構」が多く含まれる。単純に嘘というわけでは無くて、より人を感動させられるために、バズるために、あるいは何かを守るために、虚構の物語は作られ続けている。そのために、「本当」が様々な手で隠されてしまうし、伝わらないことが多い。本名では呼ばれないマル子、休養の詳細を明かされない中野もも、舞台ではなくテレビの仕事を優先する事務所の社長、心無いSNSや週刊誌の記述、涙も疲れも覆い隠す化粧や画像修正。しかし、そこに立っている人間は本当の人間で、特別ではなくて、傷付き、苦しんでいる。とはいえ、苦しんでいることのあまりの「本当さ」に打ちのめされてしまうこともある。真実は思っている以上に辛い。坂田まち子だって、マル子であることに救われているときもあって、亀の子たわしをかめちゃんとして飼っている。

だからこそ、マル子が最後に言う、「ああ、ちゃんと見てくれる人がいた」という言葉は、とても重い。これを「救い」として描いてくれることに、私たちはもっと感謝しなければならない。

アイドル、そして俳優、さらには執筆活動も続けている松井玲奈さんが、「ちゃんと見てくれている人がいる」ということを救いとして描くこと。もちろん、小説もまた虚構であって、本人とは切り離して考えるべきではある。けれど、あえて自分と近い業界の話を書いて、「本当」について着目した作品にしたということは、彼女からの祈りのようなメッセージとして受け取ってみたいと思う。受け手として「ちゃんと見る」ことの大切さを再認識して襟を正される。

何者でもないからこそ、何者にでもなれる。でも、ちゃんと、何者でもなく、ひとりの人間であるということを、それでも成し遂げたことがあるということを、誰かとの関係性の中で再び思い出す。それは家族であってもいいし、喫茶店の店主でもいいし、かつての仲間でもいいし、名前の知らないファンでもいい。舞台のスポットライトは、俳優とそれを当てる照明係がいてはじめて成り立つ。虚構のためのカット・インでも、その中にある本当が心を揺さぶる。当事性を引き受けてこの物語を描いたことに感動すると同時に、著者自身の「本当」もちゃんと誰かに発見されていてほしいなと強く願う。

若者はアナログを求めている

若者はデジタル的な体験ではなく、アナログ的な体験を求めている。

ここでいう「アナログ」は古いものという意味ではなくて、物理的なもの、実体のあるもの、という意味で、つまりは「実体」と言えるようなものである。アナログという言葉に物理的なものという意味はないのだけれど、デジタルの対義語として捉えられがちであるために、非デジタル=アナログというイメージが定着している。だから、正確に言うと、若者は実体的な体験を求めている。

なぜ若者は実体的な体験を求めているかというと、デジタル映えするからである。若者は、何かを撮影したり、録画したり、それを加工したり、編集したりすることで、デジタルなデータを作り出し、それらをSNSにアップロードする。例を挙げると、撮影可の音楽ライブで撮った動画をInstagramのストーリーズに載せたり、みんなでテーマパークに行ったときのVlogをTikTokに載せたり、あるいは、そんな特別な日ではないものでも、食べたケーキが美味しかったり、友達の変顔が面白かったり、とにかくどんな瞬間にもデジタル映えのチャンスがある。若者はデジタル化のために実体的な体験を求めている。

では地方や田舎と呼ばれる地域には、若者が求める実体的な体験はないのかと言われると、決してそうではない。雪の残る山の美しさ、道の脇に咲く名の知らない花、古びた商店街の路地裏に、それらはある。

しかし、変化がない。もちろん季節によっての移り変わりはあるものの、1日単位、数時間単位で変化するようなものではない。毎日同じような写真をアップロードしていては、面白いタイムラインは作れない。若者が求めるスピード感に、季節の移り変わりというものは対応していないのである。

若者が都市に集まるのは、都市には日々変化があるからだと思う。変化はとてもデジタル映えする。若者は日々変化する実体的な体験を求めている。それがタイムラインを作る。

さて、本来の「アナログ」という言葉の意味を改めて見てみると、「連続的に変化するものを、他の連続的なもので表現する方式」という定義がある。つまりアナログとは連続的な変化が前提としてある。

変化する実体的なものを「アナログ」と表現する、という前提を共有してこそ、冒頭の「若者はアナログ的な体験を求めている」という言葉が本当に意図したいことが見えてくる。

インターネット上で、東京にいても岩手にいても同じように体験できるコンテンツが増えた。コロナ禍以降に拡大した動画配信によって、最先端のエンタメが地方でもリアルタイムで体験できるようになった。地方の若者もスマホやタブレットを駆使して、幼い頃からデジタルが当たり前の生活を送っている。

都市と地方の、見る側としてのデジタル格差はほとんどなくなった。しかし、享受するアナログ的体験の格差は埋まらず、むしろ広がっていると感じる。

雑に括ってしまえば、ゴンチャが期間限定のドリンクメニューを出すことも、アナログ的な体験と言える。ゴンチャにあるのは変化であり実体であるからだ。

しかし盛岡にはゴンチャがない。変化も実体もないのである。ゴンチャの代わりにいつもの喫茶店がある。いつもの喫茶店には実体がある。しかし、変化はない。

美しい山がある。川もある。歴史的な建造物がある。素敵な喫茶店がある。素晴らしい風景だと思う。しかし、大きな変化はない。

どうして若者はアナログ的な体験が必要かは先ほど書いた。デジタルにしたいからだ。写真を撮りたい。SNSに載せたい。SNSはTikTokでもBeRealでもいい。ツールは時代や人によって変わる。どこにアップロードするかはさほど問題ではない。アップロードしないという選択肢もある。

実体や変化はお金で買える側面もある。たとえば、旅行である。いつもと違う土地に行く。いつもと違う風景に出会う。しかし、多めにお金がないとそれは難しい。地方から地方に旅行をするのはお金がかかる。ひとつひとつの街が遠いからだ。東京にいれば新宿から東中野に行くだけで無数に手に入るアナログ的な体験が、盛岡から秋田まで行かないと同じ程度は手に入らない。

若者はデジタル化のためにアナログ的な体験を求めている。だから、地方や田舎と呼ばれる地域がもし若者を定着させたいと思うのなら、変化と実体を意識する必要がある。でかいモニュメントを作ってもいいが、変化させられるものでないといけない。ゴンチャはなくてもいいが、期間限定のメニューを提供する飲食店はあったほうがいい。イベント会場があるのならできるだけ何かを開催していたほうがいい。もし変化させられるものがないのなら、若者にお金をたくさん与えるしかない。それもできないのなら、若者が離れてしまうのは必然である。

この変化のなさを愛している自分もいる。正確には変化はあって、1ヶ月前の岩手山と今日の岩手山は違う。そのことが分かる人と語り合いたい。この土地はゆっくり死んでいく。一緒に死んでいきたいと思う。

『ズレ続ければいつかまた重なるから』本村スンスケ(GERONIMO ZINE CLUB)

青森県八戸市でブックバーと古本屋の2店舗を営む店主の、2025年の1年間の日記本。

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自営業をしている方の日記は総じて面白い。面白さの理由は(おそらく)守秘義務的なものが会社勤めの人よりは少なく、だからこそ「何を書かないか」の取捨選択に本人の思考の矢印をひしひしと感じるからだろう。

『ズレ続ければいつかまた重なるから』はとにかく読みやすい。1日1ページで淡々と綴られる日記のリズムの良さと、文体の絶妙なポジティブさが、軽やかな追体験に誘う。

そして、なんといっても製本の良さである。さすが、本好きが作った本だ。個人出版のZINEとは思えないクオリティ。B6サイズの手に取りやすさと軽さ、目にやさしい淡クリームキンマリの本文用紙が素晴らしい。この本は、1日ごとに付けられる日記のタイトルがその日の文章における種明かしになっていて楽しいのだが、1日1ページ方式なのでページを捲らなくてもタイトルに戻れる。なんて読者思いなんだろう。

 

2025年の12月に、八戸で大きな地震があった。本にはその時の出来事も書かれている。書きたいことも書きたくないこともたくさんあっただろう。その中で、何を残し、何を削ったか。削った部分に著者である本村さんの優しさと強さを感じ取った。

ズレ続ければいつかまた重なる。様々な意味に捉えられる言葉だ。別れはいつか再会になる。覇道は時に王道になる。流行は繰り返す。本を読み終えて、本村さんが「また会いましょう」と言っているのだと思った。人はズレる。つまり誰かと(あるいはかつての自分と)別れる。でも、ズレによってまた出会えるものもある。人と出会う場所を営む店主による、祈りのようなタイトルに胸を打たれた。ズレは良いものだ。大きな揺れをもたらす断層のズレでさえなければ(とはいえ、1月時点での日記のタイトルがこういった形で回収されることには驚きを感じる)。

 

たびたび登場する「よこまちストア(スーパーマーケット)」や「伊吉書院(新刊書店)」、そして商店街など、八戸の生活本としての側面もあり、読むと八戸という街に行きたくなってくる。そしてGERONIMOで本を買って、ANDBOOKSでお酒を飲んで、店主に良い本を書きましたねと伝えたい(でも病院は行ってほしいとも伝えたい)。

『帰りに牛乳買ってきて』はらだ有彩(柏書房)

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『帰りに牛乳買ってきて』は、「テキストレーター」のはらだ有彩さんによるコミックエッセイ。女性ふたりで20年にわたる共同生活を送っている著者の、ほぼ実録漫画である。

描かれているのはあくまで「普通」の生活だ。夏に桃を剥いてそのまま食べたり、ひとりがチェーンをかけたまま寝てしまうためもうひとりが家に入れなかったり、つらいときに美味しいチーズを食べて回復したり。

 2021年に韓国で出版されベストセラーとなった『女ふたり、暮らしています。』や、明治・大正・昭和において結婚ではないパートナーシップを選びとった女性たちについて書かれた『ふたり暮らしの「女性」史』など、長らく世の中において透明化された存在であった「女性同士のふたりぐらし」を描いた本や作品が増えてきている。これらの本において、登場する人物たちがどんな境遇であれ、どんな時代であれ、その根底に共通して存在しているのは、愛おしいまでの「普通な生活」である。

『帰りに牛乳買ってきて』のあとがきにはこう記されている。

私とルームメイトの生活は、本当に取るに足らない、どうでもいい暮らしだ。(中略)このような心から驚くほどにしょうもない生活を、誰もが気軽に続けたり、気軽にやめたりできなければならない。それも、当事者の二人(や複数人)が頑張るとかではなく、当事者も心から驚くほどにサボってダラダラしていてもなお、できなければならない。

女性同士のふたり暮らしは、ただ暮らしているだけであるのに、周りからの様々な目と言葉に晒されることが、作中でも示されている。偏見やステレオタイプだけではなく、さまざまな社会制度上でも女性同士のふたり暮らしは想定されていない。「女性」が「普通」(普通ってなんだ?)から逸脱した際の、「はやく普通になりなさい」という圧力の強さや、「あなたは普通ではないです」と他人が言いたがる暴力性は、2026年現在において、様々なところに存在している。

ふたりで暮らしているからといって、その関係は決してひとつではない。付き合っているかもしれないし、きょうだいなのかもしれないし、単なるルームメイトなのかもしれないし、どちらかはトランスジェンダーでどちらかはノンバイナリーなのかもしれないし、どちらかはアセクシャルでどちらかはヘテロセクシャルなのかもしれないし、それ以外かもしれないし、そもそもそれらを口外しなくてもいいし、そして、すべては男性、女性の組み合わせに関わらずあり得ることだ。

『帰りに牛乳買ってきて』に登場する彼女たちがいたって普通の生活を送っていることを示すことの心強さは、彼女たちだけではない、あらゆる関係性の人たち(または個人)にとっての希望となるだろう。誰しもが驚くほど愛おしくてしょうもない生活を送る権利があると伝えることは、自分と自分の愛おしい人たちの生活を守ることにもなると信じている。