SENDAI CITY LIFE MAGAZINE

仙台で暮らす、東北で生きる

神田伯山の『ボロ忠売出し』が深海にいた自分を救い上げてくれた


2020年の2月。わたしは、どん底という言葉が軽く聞こえるくらいに、深い深い底に落ちていた。

新卒で入った会社で、激務と叱咤とストレスにより心が壊れ、3ヶ月で契約満了になった。そのあと始めた仕事も続かず、いろんな人の期待を裏切って、簡単な受け答えすらできなくなり、1日のほとんどの時間をベッドで眠って過ごしていた。

人というものは、一度落ちると、深海に放り込まれたプラスチックのように、どんどん深く沈むのだと、その時わかった。光が差し込まない場所で、誰に拾われることもなく、腐敗するのをただ待っていた。わけもなく涙が止まらなかった。社会のレールや規範、他人からの目、未来のこと、なにもかもまともに考えられないのに胸だけは一杯になってしまうから、できるだけ空洞になりたくて深夜ラジオを聴きながら作業量の多いゲームばかりしていた。勇気を出して心療内科に通ったけれど、どうしてこうなってしまったのかまったく説明ができず、逆に元気そうに振る舞ってしまい、ほとんど効き目のない漢方薬を処方されて、それを飲むのを毎回忘れ、一向に良くなることはなかった。

深海は酸素濃度が低い。光もほとんど差し込まず、凍りそうなほど水が冷たい。そのため、深海の底に沈むプラスチックは、地上にあるものよりも腐敗のスピードが遅いのだという。ゆっくりと朽ちていくようにして、わたしはほんとうによく眠れていた。1日18時間くらい眠ることもあった。事実を書き連ねると自分でも驚いてしまうけれど、あの時の自分には、今の自分の様子がおかしいとか、なにかを変えようとか、考える力すらなかった。あらゆるエネルギーがなくなっていた。他人と連絡が取れなくなってから結構な時間が経っていた。

いま振り返ってもどうするべきだったのかわからない。このまま人生が終わるのかもしれないと思った。最初はそれが怖かったけれど、しばらくして、このまま終わってもいいと諦めるようになった。ある人が、"ほんとうに死にたいとき、死んでしまいそうなとき、暮らしは機能しないように思えます。"と書いていて、確かにその通りだと思う。あの時のわたしには暮らしがなかった。

 

そんな折、講談師の神田松之丞が真打へ昇進して「六代目神田伯山」を襲名するにあたり、YouTubeをはじめた。チャンネル名は「神田伯山ティービー」。襲名披露パーティーの様子や、真打昇進・襲名披露興行の舞台裏が毎日更新されていた。松之丞の時代から彼の講談とラジオが好きだった自分は、はじめはぼんやりとそれを眺めていた。
真打の昇進と、伝統ある名跡の継承という、ひたすらにおめでたい晴れ舞台。そこに至るまでに、「絶望的に向いてなかった」と伯山自身が語る前座での下積み修行があり、芸人仲間が「稽古の鬼」と評すほどの練習量がある。華々しい舞台も、その裏にある計り知れない努力も、いまの自分とは対極だなと思った。

けれど、動画の中に溢れる祝賀ムードが自分を少しずつ勇気付けてくれた。ポジティブな言葉と表情が、わたしの悲しい気持ちを吹き飛ばしてくれた。動画に出演する落語家・講談師たちの明るさにも助けられた。柳亭小痴楽さんは出番がない日も楽屋に現れていつも伯山の傍にいる。瀧川鯉八さんは自身が題材となっている伯山の新作講談『グレーゾーン』を聴いて感極まっている。伯山の師匠・神田松鯉さんは弟子の晴れ舞台が嬉しいのかずっと笑顔だ。楽屋の撮影を任されて張り切っているYoutube番頭たち、長襦袢を毎日変えてくる桂文治師匠、隠れて煙草を吸う三遊亭遊雀師匠……あげるとキリがないくらいに愛おしい映像たちが素晴らしくて、どんどん元気になってきた。

わたしは鬱になってから、自分の抱えている感情は誰にもうまく伝えられない気がしたし、伝えられない瞬間にまた自分の中で何かが崩れることがわかっていた。だから誰にも打ち明けられずにいた。心を閉ざしてしまっていた。なにも考えないようにしていたけれど、ほんとうは誰かからの目や評価が怖かった。仕事を要領よくこなせない自分、上司に迷惑をかける自分、外回りの途中で涙が止まらなくなってしまった自分、あるとき広瀬通の裏手の駐車場にへたり込み動けなくなってしまった自分、働けなくなってしまった自分、他の人からの助けをうまく生かせない自分、さまざまな人を裏切る自分、ぜんぶ自業自得だというのに、自分の世界の中だけに閉じ籠って、勝手に設定した「誰かからの評価」を気にして、常に責められている気持ちでいた。この辛さを誰かにわかってほしいとすら思っていた。

ちょうどその頃、神田伯山がTBSの情熱大陸に出演した。伯山は周りからの評価について聞かれ、こう言った。

「騙されるやつは騙されるし、分かってる人は分かってるしってことで。でも何かどっかで自負もあって、何て言ったらいいのかな、その……。こんなに頑張ってんのは俺だなっていうのは思ってますね、それはもう間違いなく」

大事なことは、誰かにすべてわかってもらうことではなくて、自分で自分を認め、自分の努力を信じ、戦い続けることだった。こんなに頑張ってんのは俺だな、と口に出してみた。大学を卒業したこと。休みなく仕事に向き合い続けた日々のこと。3か月間、契約期間を全うしたこと。わたしは、頑張っていた。頑張れなくなってからもしばらく頑張っていた。今だって、どうにか前を向こうともがき続けている。わたしはわたしの辛さをよくわかっていた。

それからは、「元気がなくなったときは神田伯山ティービーを見る」ことを自分の中のルールに加えた。効果はてきめんだった。毎日の更新が待ち切れなくなって、少しずつ起きている時間も伸びた。ひとつ楽しみなことがあるだけで、生活に彩度が戻ることを知った。

 

どうしても神田伯山に感謝の気持ちを伝えたくなった。何も出来なくなっていた自分の中に久々に生まれた、「何かしたい」という感情だった。体調が良くなった隙に勢いで仙台発東京行きの高速バスの予約を取った。計39日間続く真打昇進・襲名披露興行のうち、いわゆる寄席で行われる公演は前売りではなく、入場整理券を当日朝に配布するシステムだったため、仙台から深夜バスに乗り、早朝から寄席に並べば入場券が手に入る。行けば伯山に会える。行くしかないと思った。

2月末のことで、少しずつ新型コロナウイルス感染症の影響が出始めている時期だった。いくつかのエンターテインメント公演が延期や中止になっていた。出発当日もいくつかの公演中止のお知らせが次々と流れ、真打昇進・襲名披露興行も中止になるのではないかとひどく不安になった。高速バスをキャンセルしようかギリギリまで迷った。興行が中止になったら、人生ごとぜんぶだめかもしれないと思った。大げさに思えるかもしれないけれど、あの時、伯山に会えるかどうかがすべてだった。バスが来るまで時間を潰すために入ったミスタードーナツで、「安倍首相がイベントなどの中止・延期を要請」というニュース速報を見た。そして、神田伯山の真打昇進・襲名披露興行も、3月の国立演芸場公演の中止がアナウンスされた。

もうおしまいだと思った。涙が出た。冷静になってみると、感染が少しずつ広がっていた東京に(といってもまだ20人/日くらいだったが)、寄席を見に行くなんて、しかも無職で、貯金も底を尽きそうな状況で、就活もせず、起き上がれず、なんて愚かなのだろうと思った。でも、愚かだからこそ、ボロボロだからこそ、行くしかなかった。いや、そんなことはなくて、ほんとうは正常な判断なんてできる状態じゃなかった。かろうじて明日の浅草演芸ホール公演はまだ中止が決まっていないようだった。頭をよぎるのはネガティブなことばかりだった。きっと中止だろうとTwitterの画面をリロードしているうちに、高速バスのキャンセル期限が過ぎてしまっていた。家には帰れないと思った。もうバスに乗ることしかできなかった。

深夜バスの中では全く眠れなかった。元々の生活リズムもぐちゃぐちゃな上、かなり緊張していた。蒸気でホッとアイマスクを3枚使った。毛布をかぶって光が漏れないようにして、神田伯山ティービーをずっと音だけ聞いていた。

 

ほとんど寝ないまま浅草のフグレンに入り、ラージサイズのコーヒーを飲んで眠気を覚まし、早朝の浅草演芸ホールに並んだ。他にも多くの人が並んでいた。どうやら公演は中止にならないようだった。

4時間並んで、入場整理券を無事に手にできたとき、この整理券が未来の自分を開いてくれるチケットのように思えた。吹けば飛ぶようなただの紙を浅草寺で引いた御神籤よりも大事に財布の中にしまった。

公演が行われる夕方までは時間があったので、レンタサイクルを借りて観光をすることにした。初めて東京で自転車に乗った。浅草や蔵前を自転車で走ると、自由だ、という気持ちになった。それは久しぶりに覚えた感情だった。普段は何かに縛られていた。勝手に自分を縛っていた。そういったものを全部忘れて、ただただ、自由だ、と思った。自転車を漕ぎながら笑いが止まらなかった。僕はこんなにも自由で、なんでも手に入れられる。行きたかった本屋、雑貨屋、コーヒーショップをはしごする。蔵前から、千駄木のほうまで行った。ダンデライオン・チョコレートファクトリーでブラウニーを食べながらホットチョコレートを飲み、カキモリで便箋と万年筆を買い、スカイザバスハウスで展示を見て、往来堂書店で本を買い、スケロクダイナーでアボカドトーストを食べた。 夕方、政府が一斉休校の要請を出した。

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念願の寄席。新型コロナウイルス感染症の影響で、毎日暗いニュースが流れていた世の中を、笑いで吹き飛ばすようにして、皆がひたすらに笑いが取れる噺や読み物を重ねてくる。謎かけで有名なねづっちさんがとにかく面白くて驚いた。神田鯉栄さんの「任侠流山動物園」、文治師匠の「代書屋」、南なん師匠の「粗忽長屋」と続く。楽しい時間だった。そして大トリの神田伯山が登場する。

 

伯山がまくらから本題に入った時に、時間が止まったかと思った。

 

「仙台の大町に……」

 

……仙台?

伯山が、仙台と言った?

伯山のその日の演目は「ボロ忠売出し」だった。仙台・大町の丸屋勘吉という親分の身内に、いつも汚い格好をしていることから「ボロ忠」と呼ばれる忠吉という若者がおり、彼が塩竃明神の祭礼の日に、親分の衣服と200両を持ち出して塩竈の賭場へと向かい大きな賭けをする、という話だ。

なんという偶然だろう。わたしが生まれ育って、今も暮らしている土地を舞台にした読み物を、伯山が読んでいるのである。仙台や塩竈が舞台になっている講談がある、ということは知っていたが、それを伯山が、39日間のうちのこの日に読んでくれるなど、考えもしないことだった。

「こういう状況なのでせめて明るいネタを読みたい」と宣言していた通り、自身のレパートリーの中でも屈指の滑稽講談だった。真打昇進・襲名披露興行ではシリアスな読み物を多く披露していた伯山が、目の前にいるお客さんを必死に笑わせようとしている。台詞の一つ一つ、所作のすべてに力が入っている。それを、前から3列目、伯山の息遣いすら聞こえる場所で、わたしは見た。

伯山が自分のために喋ってくれていると思った。そうとしか思えなかった。

絶対に中止になるだろうなと思った。そもそも行くことが憚られた。人生ごと諦めるつもりで東京に来た。仕事をしないで、お金も無く、これから感染が拡大すればますます就職は厳しくなるだろう。そもそも毎日ベッドで寝込んでいて、なんにもできる気がしない。けれどそのとき、深海にいるわたしを、伯山が救ってくれる気がした。有り金を全部使う勢いで東京に行くのは、わたしなりの賭けだった。ボロ忠は塩竈の賭場で、一度の丁半博打に親方の200両をすべて賭けて大勝負をする。ボロ忠は半に懸けた。伯山の言葉にも一層熱が入る。「丁はないか丁はないか!半はないか半はないか!」「勝負!」

 

「客人、運が良いや……グニ(五二)の半と出やがった。お前の勝ちだ、お前が勝った!」

わたしは賭けに勝った。いや、伯山が勝たせてくれた。


あれから、就職活動をして、25歳にしてはじめて正社員で働けるようになった。わたしはわたしを少しずつ取り戻している。すべて元通りとはいかないし、うまくいかないこともあるけれど、落ち込んだ日は神田伯山ティービーを見て、あの日のことを思い出す。暮らしとか、生活とか、死なないとか、正直に言ってよくわからない。わたしは賭け方を知っている。それだけのこと。

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※この文章は #死なない杯 に応募するためのものです